あるあるネタについての一考察

:おもしろいあるある芸人になるためには

ふと思った。
うまいあるあるネタを作る事って、結構難しい。

たまーに、今いいやつ出したいって時もあるけど、確かにあんまり言えなかった気がする。

なんで難しいんだろう。

ちょっと考えてみた。


あるあるの定義



あるあるネタってそもそも何だろう。

まず、何らかのテーマがある。
「・・・に関するあるある」っていう・・・の部分。
そのテーマにおいて、”ある”事を言って面白い感じにするのが、いわゆるあるあるネタ

じゃあ、ある事って、何?
そのテーマにおいてある事であれば、なんでもいい?

違うよね。
当たり前すぎる事では、笑いが取れない。
「夜寝る前には歯を磨く」とかは、”ある”けど、面白くない。
じゃあ、面白い”ある”と、そうじゃない”ある”は、何が違うのか。

ここで、前提を1つ置きたい。
「笑いとは、ギャップである」と。

自分の感覚と話者の言葉のズレから、笑いが生じる。
予想していた事を裏切られたときに、人は笑うと言う事だ。
この前提は、笑いのメカニズムの中でも主要なものであると思う。


この前提に立って議論を進めると、面白い”ある”には、皆の感覚とのギャップが内在しているという事になる。
どの部分に?
2つの可能性が考えられる。
・内容のギャップ
言語化可能性のギャップ

内容のギャップとは、語られた”ある”が、聞き手の感覚とは違う事。
つまり、聞き手にとって”ない”状態。
これでは、あるあるネタとして成立しないばかりか、面白くもなんともないだろう。

面白い”ある”の正体は、後者であると考える。
言語化可能性のギャップ。

何の事かと言うと、
聞き手が言語化されるとは思ってもいなかった話題が言語化されたというギャップ。
つまり、日ごろ思ってたor体験してた事だけど、聞き手自身ですら言語化した事がない事実について言われたという意外性、裏切りに対して、笑いが生まれると言う事だ。

ある意味、「その発想はなかった」である。
あったけど、なかった。そういう事だろうと思う。

だから、いいあるあるネタを聞いた時には、共感と面白さが混然一体となった感情が生まれる。
考えてみて欲しい。
普通、笑う場面で共感が存在する事はないはずだ。それは、笑いのメカニズムがギャップ、裏切りに依拠しているためだ。
そして、あるあるネタの場合のギャップは内容のギャップではないため、その2つは共存しうるものなのだ。

あるあるネタの作り方


じゃあ、面白いあるあるネタを作るためには、思いっきり聞き手の言語化認識を裏切ってやればいいわけだ。

(ここで、聞き手の共感が強いほど、言語化認識が薄い事実ほど、面白いネタになるかという部分で前提を置かなければいけないが、正直それはわかんない)

テーマ全体の中で、共感が生じて、かつあまり言語化されてない部分を見つければいいはず。
加えて、その事実自体が馬鹿らしいものだとよりいい。

求められるべきは作業は、
1.そのテーマ全体の事実集合についての理解

2.その中で、言語化されていない部分集合の探索(言語化可能性の濃淡の認識とでも言おうか)

3.当該部分集合に属する命題群からの、いいものの抽出
となるはず。


1は、まぁそのテーマについて常識と呼ばれるものを知っておくと言う事。
一通り全体像を理解してないと、2の部分を分類できない。
知識、経験がものを言う。

2では、全体の中で言語化されていなさそうな部分を理解して、選別する作業をする。
これも知識・経験が相当にものをいう部分だし、一般人の感覚と自分の感覚がある程度合致していなければいけない。

3は、実際にネタとなるいくつかをピックアップする作業。
個別の事実がよりバカらしくて、言われればあるあるって感じになるものを選ぶ。
この辺はひとえに感覚に頼る事になる。ギャップを感じ取る。


実践論的には、ボトムアップ的なアプローチが簡単かな。
あるあるネタとして使えそうと思った個別の事実について、上記の条件に照らし合わせて採用/不採用を判断する。


まぁ、実際に作る事になったら、ここに書いたような“当たりまえ”な事が相当難しいと思うけど。

これまでの5年、これからの5年。

今週のお題「子供の頃の夢」

昨日11月28日、25歳になった。

20代の折り返し地点だ。


誕生日に記事を書いたのは初めてだけど、節目の年なんで色々思う事を綴っておく。


Twitterより。
”あと30分ちょっとで25歳。振り返ると、20歳になりたての頃の自分とか、今だったら親指で捻り潰せる程度の雑魚キャラだったな。確かに一瞬だったけど、とても濃厚で楽しくて幸せな一瞬だった。5年後には30歳。異次元レベルの成長ができるといいと思う。2、3国の主ぐらいにはなってないと。”

ものすごく月並みな感想として、20歳になってからの5年間は物凄く早かった。自分の人生がそれまでとは違う方向に大きく舵を切ったのはこのあたりだったし、あれからもう5年も過ぎたのかという気持ちだ。


思えば、この世に生を受けて25年、じっくりと過去を振り返る機会は無かったように思う。目先の興味を追っかけて走り回って来た幼少時代と今とで、あまり中身は変わってはいない。昔っから計画性が無く、先の事を考えるのが苦手な子だった。

小学生の時の卒業文集に寄せた自己紹介を未だに覚えている。質問のテンプレートを埋めていく、あれである。あの頃は、毎年のようにその手のアンケートに答えていた記憶がある。そこには当然のように「将来の夢」という項目もあった。数年後に見返して呆れた事に、その小さい回答欄が、小学生が夢見そうなものからくだらないものまで、20個ほどの職業でびっしりと埋まっていた。消防士や新幹線の運転手があったかと思えば、盗賊や詐欺師などもあった。決め打ちができないのも、興味が無いことは真面目に考えないのも、この頃からだ。


この5年間は実に色んな事があって、環境や自分の歩む道も変わり続けた中で、全てを思い出すのは難しい。でも、多少の不安とともに1人北海道から出てきた時には想像もできなかったほど多くの素晴らしい出会いがあり、周囲に支えられてここまでやってこれたと思っている。
学部と院の両方ですごくいい仲間達に巡り合って笑いながら過ごせてきた5年間はとても幸せだったし、自分の大きな財産だと胸を張って言える。


そして、そんな周囲から数え切れないほどの刺激を受けながら、この5年間で自身が大きく成長できたことを手に取るように実感できる。

順調かどうかはわからない。まだまだ出来ない事も多い。しかし、昔に比べて確固たる自信を持てるようになった今現在の自分は、20歳の時とは比べ物にならないほど”強い”と思っている。物事を明晰に考えることができるようになった事、未知の領域に飛び込む事が昔より迷いなく出来るようになった事、世界との対峙の仕方を知った事。

25歳という区切りの時に、ほんの一時だけ自分を褒めたいと思う。
そしてこれから来る5年間で、自分がどこまで大きくなれるのかが楽しみで仕方が無い。


特にIT業界などでは、2000年代は「ドッグ・イヤー」と呼ばれている。犬が人間の7倍速く成長する事になぞらえて、1年がこれまでの7年分に相当するほど早く時代が移り変わっている事を指す。有史以来人類が体験した中で最も速いスピードで技術革新が為され、我々を取り巻く環境は激変していっている。
ちょうどそのど真ん中で20代を迎え、いまだ風を切って疾走し続ける世界を肌で感じながら、初めの5年間を終えたわけだ。

自分の生活レベルでも実に多くの変化があったし、学問や技術、社会システムすらも予想し得ない変動の中でその動きを加速させている。

これからの5年間もきっと同じくらい、いや、これまでを上回るスピードで多くの物事が変化していくのだろう。こんな「不確実性の時代」の中、これからの5年間を歩み始める自分がすべきことはなんだろう。自分の核を保ちつつ、その場その場の環境に素早く適応していく事だろうか。

たぶん、それはちょっと違う。


”変化を楽しむ”こと。そして自分が享受している幸せを精一杯感じること。
これが、次の5年間で自分が肝に銘じなければならない事だと思う。
これまでもそうしてきた。同じことだ。


そこに人がいて、社会があり、その奥に世界がある。
これは5年後もたぶん変わらない。
このシンプルな構造を、生まれたての赤ん坊のような強烈な好奇心を持って眺める事ができる。これが自分の最大にして最強の強みであるし、日々を生きる事の豊穣さと世界の裏にある原理の豊穣さを分かち難く繋げている規律である。


これからの人生にどんな未来が待っているかは知る由もないが、なんにしろ、あれこれ考えたってなるようになるのである。人生は全て認識の問題であり、それをどう感じるかは自分自身が既に持っている内的な世界と強く呼応しているだけだ。


まずは、修論


”現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。
真実はやがて現実となるのである。”

森を見て木を見て、また森を見る。

「木を見て森を見ず」と、いう言葉がある。
目の前の小さいことに気を取られ、物事の全体が捉えられていない状況を言う。それではいけない、という教訓である。


全体感を持て。
大きな絵(ビッグ・ピクチャー)を描け。
俯瞰的な視点を持て。


これらはすべて、言い回しは違えど、全て同じことを言っている。日本にも諸外国にも、同じような意味の言葉は山ほどある。それだけ重要ということだ。



自分の一番の強みは何よりもまず”森を見る”事ができる点かな、と常日頃思っている。誰よりも大きく、深く、壮大な絵が描ける、それを強烈に意識している。

目の前にどっしりと鎮座するリアリティが溢れんばかりの事象を、必死になだめすかしながらその抽象度をじわじわ上げていく。この個別具体的な事象から展開された世界の構造はどうなっていて、自分は今そのどこらへんにいるのか、そしてそれともっと”外側”との関わりはどうなっているのか。要素間の有機的連関。虫瞰と鳥瞰。


これがきっちりと出来ていれば、目の前の小さな事に対して取るべき行動はめったなことでは外さない。目の前にある何かがどんなことを前提として存在しているか、それと世界との整合性、論理構成。森が見えていれば、どの木を見ればいいかなんて瞬時に分かる。


それだけ強く意識していても、ふっと気を抜いた瞬間に道に迷ってしまう事も結構ある。常に森を見続けるのは、なかなか難儀な事なのである。森をみながら木を見ることは、難しい。

それは、基本的に我々の脳がマルチ=タスキング仕様になっていない事に強く関係がある。複数の作業を同時にやることはできない。普段の生活でも、やれているように見えて、実はかなり効率が下がっていたり注意が散漫になっていたりする。

実はこれ、コンピュータでも同じである。ブラウザを開きながらiTuneで音楽を流し、更に表計算まで行うことができる、マルチ=タスクの達人とも言える PCだが、コンピュータの中で実際に行われているのは、それぞれの作業をものすごく細かく分割して、A→B→C→A→B→.....という逐次処理を超高速で回しているだけだ。これが我々の目には同時並行的な作業に見えているにすぎない。



このように、我々が同時に物事を処理する事ができない以上、どうしても木”だけ”を見ている瞬間がある。

一般的な思考過程に置いて、森は「概念」である。個々人の脳内の情報空間に措定された実体のない冷たいものである。
それに対して、木は我々のまさに目の前に存在し、その存在感や質感、匂いや音すら感じる事ができるものである。この圧倒的なリアリティを前にして、我々の意識は瞬く間にその存在に捕らわれる。五感のすべてを刺激される中で、この誘惑はとても強いものとなる。

だから、我々は目の前の作業に没頭しがちだ。脳の中の無意識が頭の片隅にある森の重要性をどれだけ強調しようと、それはもはや遠い声に過ぎない。その時の自分にとっては、目の前にある”それ”だけが「世界」なのだ。


これは、自らが持つ知力の限りを尽くした闘争である。
これは、人間の本能に逆らって理性をその手に取り戻す長い旅である。
全体感を持つ事が大事、なんていう生易しいメッセージに騙されてはいけない。強烈な現実感に負けて永遠にそこから抜け出せなくなることを防ぐために、我々は歯を食いしばって抽象度を上げなければならない。


それくらい、森を見て木を見ることは、難しい。

Twitterの生態系 - 複雑さと創発的ネットワーク

ここ最近ついったーで色々と遊んでいた事で、ある程度考えがまとまってきた。

ついったーの何が凄いのかについては前々からここに断片的に書きとめてはいたんだが、ちょっとまとめて書いておくことにする。


Twitter創発的ネットワークである。

Twitterのメカニズムは、力学系の理論、より広義には複雑系の科学の範疇において捉える事が可能である。

つまり、個々の要素が極めて秩序立ったシンプルなルールによって動くのにも関わらず、総体としての系はその個々のシンプルさからは考えられないような複雑な挙動を示す。

系が完全なカオスである状態でもなく、完全に秩序に従っている状態でもなく、その境目の臨界状態(カオスの縁)にある場合、一般的に個々の要素の総和は系全体と等しくはならないと言われる。ここにおいて、これまで多くの学問領域で取られてきた要素還元主義の立場(全体は部分の総和である)は成り立たず、比較的新しい学問である複雑系研究は、自然科学の諸分野に割と大きなセンセーションを巻き起こした。

要素間の動的な相互作用によって形作られた極めて特殊なパターンは”創発”と呼ばれる。特殊なパターンの一例としては、シグナルの増幅がある。雪山における雪崩とか、バタフライエフェクトの台風とかをイメージするとわかりやすい。


そして、Twitterの持つシステムは、それがまさに複雑な系として振る舞う事を許す幾つかの条件を兼ね備えている。
・各個人は多くのフォロー/被フォローを行い、オープンな繋がりを持つ。
・各個人は他人のtweetに返信/リツイート出来る。
・返信/リツイートはある程度規則的なメカニズムによって成される。(面白いモノ/名言はRTされやすい)


上記により、Tiwtterはまず間違いなく複雑系の挙動を示すと考えていたのだが、実際に使ってみて色々と思った事がある。


Twitter所感

まず思う。
Twitterが総体として複雑系としての挙動を示す事は、間違いではない。
そのエコシステムの中では、シグナルは増幅され、ノイズはタイムラインの中に消えていく。
自分が全くフォローしていない人が放った秀逸なつぶやきは、時を待たずして自分のタイムラインに現れる。強烈な即時性。
フォロー/被フォロー人数を増やせば増やすほどその傾向は強く、シグナル増幅の帰結を見ることができる確率もあがる。

そして強く感じたのは、シグナルが増幅され減衰していくまでの時間があまり長くないという事だ。そこまで大規模な”創発”に巡り合ったことが無いからかもしれないが、全てのシグナルの寿命は長くない。これはTwitterが”フロー”を基盤として成り立っているシステムだからだろうか。

また、ユーザーがコミットしている程度にかなりばらつきがあり、極端に被フォロー数が多い少数に対して裾野が相当広い。ここは、一般的な複雑系の科学が分析対象としている系とは少し趣を異にする点であり、その影響による創発の偏在性もかなり目立っているように思う。


考察

理論的には、全ての人をフォローし、すべての人からフォローされれば、個人がTwitterの全体を再現できる。その意味で、Twitterフラクタル性(自己相似性)を持つとも考えることができると思われる。

1.全体を部分に還元することはできないが、規則に還元することができる。
2.単純な規則を自己言及的に反復適用することから生まれる。

という点で、総体としてのTwitterを純粋な数理モデルで表現する事も可能のように思う。


いずれにしろ、幾つかの小さな創発を確認する事は出来たわけだが、その効果を十全に活用するには大量のフォローを必要とするため、必然的にノイズも多くなってしまう。ここら辺がTwitterの1つのジレンマである。


複雑系、かつ出力として情報を扱うという点で、Twitterの全体をニューラルネットワークまたは脳機能と近似する事ができる。ここにおいて、増幅されたシグナルだけを抽出する事が可能であれば、それはものすごく優秀な脳として振る舞う可能性がある。これから出てくるのはそんなサービスだろう。

ただ、上記の事がこのサービスの真髄かといえば、そうではないように感じた。
誰かが言ってたような「パブリックビューイング感」、緩いつながり、そしてバイラルなネットワークが生み出すリアルな活動。それらを求めて万人が集った結果としての系全体が、複雑な系であるという話だ。


その面白い部分はもう見終わったとは思うけど、これからも色々と観察していこうと思う。


関連記事:
ソーシャルメディアは「社会」のメディアになれるか

鍋の起源を追ってみた

今週のお題 「好きなお鍋」

最近は、「完熟トマト鍋」とか「トマトすき焼き鍋」(両方ともカゴメのやつ)http://www.kagome.co.jp/tomatonabe/top/とか、変わり種(なぜかトマト縛り)を食べてる気がするけど、これがなかなかいける。

まぁ、ずっと変わらず好きなのはダントツでしゃぶしゃぶだけど。しゃぶしゃぶって鍋なのかな?鍋だよね。


ところで好きな鍋について考えていたら色々と疑問がわいてきた。みんな大好き鍋料理って、日本発祥?いつ頃から食されてきたの?

ちょっと調べてみた。


昔の鍋料理は今よりも多様だった!?

器としての鍋の歴史を遡っていくと、奈良時代(710年頃〜)の書物には既に鍋に関する記載が見られる。土器製の鍋や金属製の鍋があり、調理用具として使われていた。

料理様式としての鍋物料理の登場は、それからずっと後、江戸時代(1600年頃〜)を待たねばらなず、それまでの間に今日我々が好んで食すのと似通った鍋料理の明確な記録は存在しない。

では、その間に鍋料理は一切なかったかというとそうではなく、鍋で加熱した材料を汁とともに椀に盛って供する料理のメニューは今日より豊富であったようだ。


「汁」が鍋物料理の起源

室町時代から戦国時代にかけての中世の料理書の世界では、「汁」と「吸い物」には明確な区別があった。飯に添える副菜が「汁」であり、酒の肴として添えられるのが「吸い物」である。

 そこで、「汁」は飯に添える物であるため、飯の味が引き立つように濃いめに、「吸い物」は酒が進むように淡白にという決まりがあったようだ。

鍋物料理の起源となったのは、「汁」と「吸い物」のうち「汁」系統の料理である。つまり動物や魚介類を「汁」に仕立てた料理から鍋物が発展してきた。

その時代に実際にどのような鍋料理があったかというと、当時の様々な料理書に記されており、これらに現在の鍋料理に至る一端を見出す事ができる。

季節のメニューアイディア「鍋料理」より

江戸時代初期の「料理物語」には「なべやき」という言葉が出てきます。内容は味噌汁で煮る鍋料理のようです。
江戸料理集」には「鍋こくしほ」(=鍋濃漿)という味噌汁仕立ての寄せ鍋の意味の料理が出てきます。
「素人包丁」には「鋤焼」という言葉が出てきますが、これは現在の「すき焼き」とは全く異なり、農作用の鋤を鍋の代わりにして魚や、鯨などの肉を焼いて食したようです。
豆腐百珍」には「湯やっこ」(=湯豆腐)が登場します。ちなみに「やっこ」とは大名行列の中の奴さんの着物の紋が賽の形であったことから大きい賽の目に切った豆腐を「奴豆腐」と呼びます。現代でも「冷ややっこ」という言葉は残っています。
「黒白精味集」には「貝焼」というあわびや帆立の貝の貝殻を鍋代わりにして魚貝や茸などの材料を煮込む料理も記されています。現在の秋田県には郷土料理として「しょっつる鍋」と同じ材料を貝で煮て食べる「しょっつる貝焼」があります。
「江戸時代料理書」に唐料理として記されている「もうりやう」という名前の鶏汁は「水炊き」の元祖といえます。このことから鍋料理は中国料理の影響も受けていることが判ります。
やがて江戸時代の後記になると料理書以外の書物にも鍋料理は頻繁に登場したことから、庶民の生活に深く浸透していったことがうかがえます。そして「すきやき」をはじめ現在食されている定番の鍋が流行したのはそれよりもあと、明治時代以降と言われています。

このように、「汁」から発達した鍋物料理は、江戸時代には現在に繋がる形で食されていたようだ。


日本はやっぱり「鍋の国」

ここで、海外に目を転じてみる。
鍋物といえば日本!という気がしているが、これは本当に正しい認識なのだろうか。


季節のメニューアイディア「鍋料理」より

お隣の国、韓国には「チゲ」があります。大きな相違点は、日本の鍋が具を足しながら食すのに対して、韓国の鍋は最初から具を入れて一気に煮てしまうところです。
熱帯の国、タイには「タイスキ」があります。暑い国だからこそ熱い鍋でスタミナをつけるという食事の考え方です。「タイスキ」は使用する鍋や食べ方が「しゃぶしゃぶ」によく似ています。
一つ鍋を囲んで食べるスタイルの料理が少ないヨーロッパにもスイスの「チーズフォンデュ」がありました。調理としての鍋料理ならば、フランスのブイヤベースとイタリアのズッパ・ディ・ペーシェやドイツのアイントプフなど世界各国にあります。

なるほど、どれもかなり有名なものだね。

しかし、鍋を複数の人数で囲んで煮たて、焼きたてを食べて楽しむという料理は海外ではあまり見られず、加えて、日本のように全国各地に名物鍋がある国は見当たらないようだ。日本はまさに「鍋の国」と言える。


以上。

鍋食べたくなってきた・・・

電子書籍はじまた!神がかったデジタル雑誌・書籍サービス「Zinio」

今年2010年は、Appleによる電子書籍ストアの開設をはじめとして数々の同様のサービスが勃興しており、「電子書籍元年」と呼ばれている。

iPhoneiPad両方のユーザーである自分にとっては、この流れはとても喜ばしい事のはずであり、真っ先に恩恵を受ける部類であるはずだった。

しかし、である。
Amazonの日本語版Kindleストアは一向に始まる気配を見せず、Appleは相変わらずどうでもいい本ばかり並べ、その他のサービスも端末はバラけるわ全貌がいつまでたっても見えないわで、未だこれといった感動体験には出会わずに過ごしてきた。

電子書籍の始まりの年は、同時に終わりの年でもあるのだろうか。


だが、先日たまたま発見したデジタル雑誌・書籍サービス「Zinio」は、この閉塞感を打開するだけの力を持っているかもしれない。

アメリカ発のこのサービスは、The Economist、Harvard Business Reviewをはじめとした有名雑誌を中心に50,000種類を超えるコンテンツを取りそろえており、それらが書店で買う値段の2/3程で購入できる。

購入したコンテンツは、PC(win/mac)上だけでなく、iPhoneiPadでも読む事が可能。というか、専用アプリが既に存在するという徹底ぶり。

今の所購入できるのは主に洋書だが、サイト自体はいち早く日本語対応を済ませ、日本語コンテンツも徐々に増えてきている。ここに垣間見えるZinioの”やる気”は、上記で言及した他のサービスとは一線を画している。

今読める日本の雑誌一覧を挙げると、
DIME
・PCFan
SPA!
・Discovery Japan
・VOGUE HOMMES JAPAN
などなど。

ラインナップはこれからも増えていくと思われる。


自分は、National GeographicsやScience Illistratedなどを読んでるが、決済・ダウンロードも一度登録してしまえばサクサクできるし、何冊でも持ち運べてすごく便利。


2010年ももうすぐ終わるが、ここにきてやっと、電子書籍元年の萌芽をみることができたような気がしている。

Zinio日本語サイト:http://jp.zinio.com/

ツイッターの魔の手が。。

ツイッター始めたから、このブログで書く機会がめっきり減った。

短めのコンテンツであればツイッターの連続ポストで済ませてしまうし、長めのやつは本家ブログで書く、という感じ。

始めたばっかりだけど、そろそろ更新辞めようかと思ってる。


今週のお題専用のブログにしようかな。。