我々が我々である理由 -サイズの生物学が見据える地平
サイエンス系では言わずと知れた名著「ゾウの時間 ネズミの時間 -サイズの生物学」を読んだ。
多種多様な生物たちが何故今のような大きさと構造を持つに至ったかを、大胆な仮説と数々の実験結果を交えて説明している。
「だから彼らはそのような大きさになったのである」
著者である本川達雄氏によって繰り返し述べられるこういう記述を見ていると、なんだか不思議な気持ちになる。
人智を超えたなにか大きな存在が、我々人間を含むあらゆる動植物を生物学的必然性に基づいて導いていっているかのような錯覚。進化という大きなうねりの中で、気の遠くなるほど長い年月をかけて変容し続ける生物のデザイン、そしてその適応過程は、なにか神秘性を帯びたものがある。
短い一生を生きるしかない我々人間は、その壮大さにただただ目を見張る事しかできない。
このように、マクロの生態学や生物系統樹によらず、生物の物理的デザインに注目した生物学が我々に与えてくれる啓示とは何だろう。
本書において、著者はこう言っている。
「ゾウの時間 ネズミの時間」あとがき
サイズを考えるということは、ヒトというものを相対化して眺める効果がある。私たちの常識の多くは、ヒトという動物のサイズがたまたまこんなサイズだったから、そうなっているのである。その常識をなんにでもあてはめて解釈してきたのが、今までの科学であり哲学であった。哲学は人間の頭の中だけを覗いているし、物理や化学は人間の目を通しての自然の解釈なのだから、人間を相対化する事はできない。生物学により、はじめてヒトという生き物を相対化して、ヒトの自然の中での位置を知ることができる。
そう、これは非常に重要な視点である。
人工知能の研究者達が誰よりも人間の思考プロセスを知っているように、自己自身を相対化できて初めて、ヒトは自己の深さを知るのである。
本書のこの箇所を読んでいて、あの「生物と無生物のあいだ」の中で著者である福岡氏が発した非常に印象的な問いを思い出した。
”我々人間は、何故今のような大きさでなければならなかったのか。”
彼が生命とは何かについて考え続けて達したこの問いに出会った時の衝撃は、今でも鮮明に覚えている。
分子生物学的な観点から、分子の揺らぎとヒトのサイズの必然性を結びつけた彼の論は、確かに本川氏の論旨とは切り口が異なる。しかし、彼ら2人が到達したこの問いは、我々が我々であることの「理由」に挑戦する非常に哲学的な問いである。
常識の壁にぶつかり、それを壊すことは難しい。我々人間は、自らの脳の中に絶対者の視点を持ち得ない。だからこそ、我々の常識の外側に広がる広大な思考空間は有意味であるし、生物学が人間を徹底的に相対化しようする学問であることの価値は大きい。
本川氏は、本書のあとがきにおいてこうも言う。
「都会人のやっていることは、はたしてヒト本来のサイズに見合ったものだろうか。」
ヒトのデザインがその生物学的必然性に強く呼応しているとしたら、我々は現在の過度に肥大した生き方そのものを、今一度見直す必要があるかもしれない。
Amazonリンク+参考記事:
ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)