”効率性”再考 - 日常的な意思決定に際して

 生活の様々な局面でこれまで直感(に近い判断)で決めてきた行動規範や仕組みが積み上がっているが、最近、これら1つ1つを十分に見直す必要があることに気付いてきた。自分の行動パターンに対してそれぞれの仕組みが最適化されていないのだ。
 これらについて始めから1つずつ熟考していれば良かったんだけど、どう考えてもそんなしっかりしたこと出来る気がしない。

 よくよく考えてみると、そういうことがしっかりとできる人は、元々そういう”資質”を持っている人じゃないかと思う。ここでいう「元々」というのは、先天的なものに限らず後天的に獲得した形質をも含む。

 ほんの些細なこと、例えば「どんな形状のポストイットを使うか」レベルにしても、自分の行動特性に対して最適化されているかどうかで、それ以降にポストイットを使用するすべての場面で生産性が結構違ってくるんだけど、人生で最初のポストイットを買う時にそんなことは誰も考えていない。それができる人は、元々何に対しても解像度が高い性格の人。

 実はこれは我々人間にとって結構大きな問題で、重要度が高い項目であるにもかかわらず、緊急度が低く主題化されにくいものは問題視されず、長らく放っておかれる傾向にある。その最たるものは「健康」だったりするんだが、病気になって初めて、もはや当人が手放してしまった「健康」が主題化され、それに対しては事後的な処置しか選択肢が残っていないこととなる。”ばあちゃんなんかが「体にだけは気をつけてね」って言うのを華麗に聞き流す若者”という構図は珍しくもなんともないものだが、この「体にだけは気をつけて」というアドバイスは効率性の観点からも真理だったりする。しかし悲しいかな、我々はそれには当分気がつかない。

 つまり、普通の人は、色々と問題が出てきたり不便に感じたりするようになって初めてそれについて考える。自分自身が問題意識とともに改めてその対象を主題化するまでは、非効率的な選択を支持し続けている。この問題を避けるのが難しい理由は、その傾向が”性格”に近いからであると思う。特定の対象に関するハウツーが功を奏する割りに、一般性の高い効率性向上の方法論は実効性に乏しい。それは、事物の主題化の仕方自体が個々人の”資質”に深く関わっているため。この、「一般的な効率性の高さ」を改善するためには、そういう一般性の高いハウツーは意味が無い。

 「解像度を上げ」ながら「常に効率性を意識する」ことは口では簡単に言えるけど、たぶん実際にやろうとしても困難を極めるだろう。だから、我々一般人が取るべき方法は実は1つしかなくて、それは「日常的な判断のレベルを上げる」事。つまり、脊髄反射的な意思決定で判断を誤る確率を下げること。そちらの方(瞬間的な意思決定の精度向上)が、一定のレベルまでは訓練が報われる度合いが大きい。経験を積めば積むほど直感が鋭くなり、初期仮説の精度が高まってくる、とかいう戦コンっぽい話とは、ここら辺で繋がってくる。

 だから、自分を変えようといくら意気込んでもそんなに意味はなく、それよりも思考の精度を上げることがより効率的で生産的な生き方に繋がる、ということだ。なんにつけても。